伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、報知新聞社ボーイズリーグ担当、スポーツライター。

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■ 2017年8月31日号

「巨人キラー」で名をはせる 

大羽 進

 生まれも育ちも生粋の江戸っ子。左腕大羽進投手は、いわゆる東京弁で最も都会的な雰囲気を漂わせていた。色白で細身の体。際立ったのは服装だった。ブランド品の背広にピカピカ光る革靴。センスの良さはピッチングにも表れていた。大羽は「巨人キラー」として名をはせた。中高と同学年の王貞治(現ソフトバンク会長)とは、ライバル同士。

 王が巨人に入団するや、大羽は決めていた明大進学を諦め広島に入団した。ライバル意識は中学、高校から続いていた。大羽が日大一高、王は早稲田実業。全国選手権大会出場を目指しての決勝戦は王に軍配が上がり、そのまま王は甲子園で高校野球の頂点に立ち、騒がれて巨人入りした。

 「宿敵のライバル」「因縁の対決」の2人は、やがて王が一本足打法≠身に付け、投手から野手に転向。後に王は本塁打を量産して、世界のホームラン王になり、大羽との距離はどんどん開いていった。しかし対巨人戦になると大羽は緩急を使って王、長嶋に向かっていった。

 球界史上に残る一ページを大羽が記している。1964年(昭和39年)の5月5日の巨人戦(後楽園球場)。前の試合まで王は4打席連続本塁打を放ち、この日の広島戦に「5打席連続」の日本記録がかかっていた。先発は大羽だった。この試合で広島は、王に対して、当時の東洋工業(現マツダ)のコンピューターを駆使して編み出した王シフト≠敢行した。王の打球方向から分析、野手全員の守備位置が極端に右寄りになるシフトだった。大羽は真っ向勝負に挑んだ。敬遠も考えられたが、「絶対に逃げたくなかった」と江戸っ子の度胸の良さが奏功する。内角のストレートで一塁ライナーに仕留めた。場内から大きなため息が漏れる。王の大記録達成を阻んだ瞬間だった。同年8月22日の巨人27回戦では初完封をやってのけた。

 王との対決にはとことんこだわった。65年に入ると、フォームの修正に踏み切った。一本足のタイミングを狂わすための「フラミンゴ投法」だった。腕の振りを早くしたり間を取ったり。「悪くも良くも、いわゆるごまかしのピッチング。自分が生き残るための究極の投球術とでもいうかね」。王対策で身に付けた投球術は、新たな自信となり、勝ち星の少なかった他球団にも成果を収めた。このシーズン、自身プロ最高の13勝をマーク、オールスター戦にも出場した。

 少年時代からただひたすら「打倒王」の夢を追いかけてきた。全てが王ありきだった。2人が顔を合わすと「ワンちゃん」「オオバ」と呼ぶ仲だった。やがて「月とスッポンの差になった。オレなんか比べものにならないけど、ワンちゃんだけは抑えたい」。大羽にとっては永遠のライバルだった。「巨人キラー」を証明する数字は、プロ通算48勝のうち、19勝が巨人から挙げていることだ。72年に東映フライヤーズ(現日本ハム)に移籍。1年後に引退した。



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