伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、関西記者クラブ会員、プロ野球殿堂入り投票者、スポーツライター。

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広島カープナイン様へ 〜投手編〜(2018.4.5)

多彩な攻撃陣〈打者編〉(2018.4.12)

広島で才能開花 鵜狩道夫(2018.4.19)

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追悼 衣笠祥雄〈前編〉 骨折でもフルスイングの鉄人(2018.5.10)

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現役に固執。米独立リーグから連絡待ち 梵英心の近況(2018.5.24)

今季の支配下登録選手の年俸(2018.5.31)

スペシャル対談 駒沢悟×山内泰幸(2018.6.7)

■ 2017年9月7日号

慶彦との1、2番コンビで活躍 

山崎隆造

 1977年(昭和52年)、山崎隆造は地元の崇徳高校から、広島にドラフト1位で入団。前年春の選抜大会(甲子園球場)で、中国地区代表として堂々初優勝。この大会で山崎の走攻守に渡る大活躍がスカウトの目に留まった。「憧れのカープから1位で指名されるなんて夢にも思っていなかった」。当時の私の取材メモに残している。

 山崎のプロ生活は挫折、栄光、復活と目まぐるしく変わっていった。

 まず成功への扉を開いたのは、古葉監督による「改造2号」と名付けられたスイッチヒッター(左右打ち)への転向だった。「左打ちは足を生かして凡打(ゴロ)を内野安打にできる」と説いた古葉監督。山崎は何の抵抗もなく、その日から右ピッチャーに対しての左打ちの猛練習に取り組んだ。

 順調にプロへの道を歩んでいた山崎に、突然のアクシデントが。レギュラーへのポジションをつかみかけた4年目のオープン戦。熊本藤崎台球場。外野を守り大飛球を追ってフェンスに激突。そのまま担架で病院へ搬送された。右膝骨折だった。砕けた骨を集めてつなぎ直す大手術。この年のシーズン、山崎の記録はなく空白。「絶望感という弱い気持ちの反面、治ったら死ぬほど練習をして誰にも負けない選手になりたいという強い気持ちが交錯している」と見舞いに訪れた私に心情を吐露してくれた。5か月間の入院から退院後。選手生命の危機を乗り越えた山崎は″不死鳥≠フごとくよみがえる。入団5年目から3年連続で3割をマーク。後に高橋慶彦との1、2番コンビは赤ヘルの″黄金時代≠築く礎となった。だが順風満帆とはいかなかった。80年代の後半。突如襲った長いスランプ。けがを克服したという精神力と自負心は、ちょっとした事件(交通事故)から思わぬ方向へ。市内の病院へ2度目の入院生活。

 しかし91年、6年ぶりに打率3割1厘を記録した。「野球ができる喜びを感じながら毎日一生懸命プレーに打ち込んだ。余計なことは一切考えなかったのがよかった」と心の病に打ち勝ち、二度目の復活劇を果たした。

 ちなみに山崎より先に入団していた高橋慶彦がスイッチへの「改造1号」となり、85年は正田耕造が「改造3号」として、それぞれ首位打者や盗塁王に。高橋は79年に33試合連続安打の日本記録を達成していた。

 第2号の山崎は「2人はそれぞれタイトルを獲得しているが、ぼくは無冠だった」とよく口にしていた。それだけ2人にはライバル意識を強く持っていた。

 5度のリーグ優勝に貢献。ベストナイン3度、ゴールデングラブ賞4度。走攻守三拍子そろった名選手だった。93年に引退後、カープのコーチを経て2軍監督へ。現在はRCC中国放送の解説者。



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