伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、関西記者クラブ会員、プロ野球殿堂入り投票者、スポーツライター。

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■ 2017年10月5日号

〈シリーズ男〉の異名取った右腕

山根和夫

 日本シリーズで通算5勝を挙げた投手は、カープ史上ただ一人。「シリーズ男」の異名をとった山根和夫だ。150キロのストレートと落差のあるフォークを武器に、マウンドに立ちはだかった。

 1979(昭和54)年、80年の近鉄との日本シリーズでは、いずれも最優秀投手賞を獲得。ただ晩年の4年間は「常に全力投球」の代償から、右肩痛との戦いだった。

 「花の命も短いが、オレの投手生命も短かった」。山根が広島を去るときにいみじくも残したセリフだった。

 山根は77年、日本鋼管福山(現JFE)を経て、ドラフト2位で入団した。オーソドックスなフォームから投げ下ろす速球が開花したのは3年目。

 初勝利をマークしたのが7月12日の巨人戦。「キャッチャーのミット目がけてただ全力で腕を振っ-て投げた」。試合後の談話。確かに変化球に頼らず真っ向勝負の快速球。まさに衝撃的なデビューだった。初勝利まで、入団から2年余りの期間を要したが、その年は、シーズン終了までのわずか3カ月で巨人戦の初完封を含めて8勝を挙げた。山根自身は初優勝=i球団としては2度目)も経験することとなり、日本シリーズ(対近鉄)のマウンドでは、後半戦活躍の勢いもあって第5戦で2安打完封。続く第7戦でも力投して、初の日本一に輝いた。

生意気≠ェメンタル強化

 翌年もリーグ連覇に貢献し、シリーズでも2勝をマーク、前年に続いて短期決戦の強さを発揮した。「マウンドに上がるときは絶対に負けないんだという強い気持ちに、最後まで投げ切るんだという負けん気でいた」と悪くいえば人を食ったような生意気さにうぬぼれが、山根のメンタル面の強さを加速させた。

 北別府、池谷、小林誠、高橋里ら「投手王国」を誇ったチームに、山根の独特な個性が、日本シリーズの大舞台では際立っていた。84年は、プロ入り最多の16勝を記録した。だが、力投型の右肩には異変が起きていた。シーズン中盤ごろから痛みと戦いながら投げ続けていた。「先発の当日は、試合前に痛み止め薬の錠剤を飲み続けていた」。苦闘の日々を打ち明けた。華やかな最後のマウンドとなった、この年のシリーズ(対阪急)では、初の胴上げ投手≠ニなった。「人から何を言われようと、自分は自分。何があっても悔いを残さないタイプ」。翌年のキャンプでは右肩が上げられない状態になっていた。実働は5年間。85年から86年の2年間、山根の成績は、ほとんど空白欄になっている。

 87年に西武に移籍したが、肩の激痛からは逃げられず、2年間在籍後引退した。

 「野球人生に悔いはなかった。痛み止めを服用しながらも16勝できた。最後まで自分を貫き通しましたから」。孤高のピッチャーは「シリーズ男」の名前を刻んだ。後には日本ハムの投手コーチも務めた。



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