伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、関西記者クラブ会員、プロ野球殿堂入り投票者、スポーツライター。

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■ 2018年1月18日号

追悼星野仙一氏 

中日入団時から親交 
執着した金本のFA移籍

 新春早々の訃報だった。「うそだろう」。正直信じられなかった。「仙ちゃんが死んだ」。6日早朝から携帯が鳴りっぱなしだった。4日、膵臓(すいぞう)がんのため死去した星野仙一氏。70歳の生涯をただひたすら野球界の「闘将」、発展を願って尽くしてきた人生だった。

 昨年1月初旬、「野球殿堂入り」の情報を発表の前にいち早く知り「おめでとう」と電話した。「ありがとうさんよ」。例によって野太い声が返ってきた。いつの日か、祝賀パーティーの日が決まれば行くからなと約束を交わしていた。

 1969(昭和44)年、明大からドラフト1位で中日入団以来長きにわたって親交を温めてきた。多くの場面や言葉が走馬灯のように浮かんでくる。

 「コマちゃん、カネ(金本監督)はよくやってるよ。来年は広島と優勝を争うよ」。昨年監督就任2年目でリーグ2位になった阪神金本監督の手腕をうれしそうに褒めあげた。仙ちゃん(あえて呼ばせてもらう)と金本。2002年のオフ、金本が残留かFA移籍かに悩み迷った時期だ。

 それ以前の話に戻るが、仙ちゃんが大学時代から友情を培ってきた当時の広島・山本浩二監督に、「コウジ。カネ(金本)が手を挙げたら(FA宣言)、ワシは獲りに行くからな」と宣戦布告していた。その執 着心たるやすごかった。「うちのチームを変えられる選手は金本しかいない。そこでコマちゃん頼むぜ」。私と金本は大人と子どもほどの年齢差があったが、以前より親交があり、広島のチーム内外では私と金本の間柄が知れ渡っていた。私としては単なる相談役ぐらいにしか思っていなかった。実は浩二監督からも「カープに残るように言ってくれ。頼むよ、コマちゃん」と念を押されていた。盟友2人の監督には「FA権はせっかく得た自由に球団を選べる選択権。本人が決めること」とかわしていたもの、私の心中は複雑だった。

 決断期限の10月31日、未明のこと。仙ちゃんから携帯が鳴った。「コマちゃんありがとう。ありがとうな。いまカネから返事をもらったよ」。うれしそうだった。翌年03年、星野阪神は金本の活躍などで優勝した。

 自軍選手を叱る、褒めたたえる、鼓舞する。選手夫人への誕生日には花のプレゼント。選手会などのゴルフコンペや納会には必ず賞金、その他の賞品を贈った。中日、楽天監督時代も続いた。優しくて、人一倍の気配りと懐の深さ。時には審判の判定に怒って猛烈な抗議をする。劇場型のパフォーマンスも心得ていた。私はよく言っていた。「仙ちゃんは口八丁手八丁だな」(笑)。

 阪神のシニアディレクター時代(06年)のことだ。巨人のある偉い人から、私を通じて「巨人の監督に迎えたい」と交渉役を依頼された時はわれながらびっくりした。私が巨人系のスポーツ紙の記者であり、星野氏と親しい間柄だったからだろう。断るわけにもいかず、一応極秘に話を進めていた。「この話は外部には絶対に漏らすなよ。両球団に迷惑が掛かることだからな」と仙ちゃんからもくぎを刺されていた。

 約1カ月後、岡田監督の下、阪神が優勝した深夜のことだった。仙ちゃんから携帯が鳴った。「いま福岡にいるんや。例の件はなかったことにしてくれや。ただワシにとってはいい夢をみさせてもらった」。珍しく涙声だった。翌日、大阪に戻っての記者会見で、仙ちゃんは「その話はうすうす外部からは聞いておりましたが、私には一切ありませんでした」ときっぱり否定した。しかし、この間読売、報知以外の3紙のスポーツ紙がそれとはなしに報じていた。あえて会見を開いたのも星野流の心配り。幻の監督秘話だった。

 楽天の副会長の身にありながら少年野球の話をよくした。「サッカーはボール1つあればいい。野球はバット、グラブも用具がいる。その子らのためにワシは球界(楽天)を去ったら尽力しようと思っとるんや」。力強い言葉がいまも耳に残っている。

 「闘将」「男気」「義理人情」昭和の人間には、いまや懐かしい言葉だろう。球界を深い悲しみに包んだ星野仙一氏の死。最後は三重県津市に住む娘さん夫婦が開業する病院で眠るように息を引き取ったそうだ。仙ちゃんの死はたまらなく寂しく、いつまでも脳裏から離れないのだ。



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