伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、関西記者クラブ会員、プロ野球殿堂入り投票者、スポーツライター。

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■ 2018年3月1日号

「孤高の男」

前田智徳

 早いもので一カ月間のキャンプが終わって、3月からオープン戦を迎える。選手はいよいよ臨戦態勢≠ノ入る。

 キャンプからオープン戦の時期になると、必ず頭をよぎる思い出に残る人がいる。「孤高の男」とも「求道者」とも称された前田智徳さんで、現役引退後はプロ野球解説者として活躍中だ。この2月中、各球団のキャンプ視察に訪れた前田さんは、選手の練習ぶりをどう受け止めたのだろうか。私が想像するに「もっと1球1球を大事にしてバッターボックスに入りなさい」と。特に若いバッターへの集中力の欠如を感じていたのではないだろうか。

 そこで現役時代の前田のキャンプを振り返ってみた。打撃練習(フリーバッティング)が始まると、打者は2台のマシンと2人のバッティングピッチャーを相手に、限定された時間内で各打席をまわる。打撃専用のピッチャーにとって一番嫌だったのが前田だった。練習用の投手は打者に打ちやすく、ストライクを投げ込むことだけが要求された。皮肉なことに前田になると急にストライクが入らないピッチャーがいた。球種を頭に描きながら1球1球に集中する前田は、当然悪球には手を出さない。ただ、ストライクが入らないとなれば別だ。仕方なく少々のボール球でも打ちにいく場合もあった。ボール球であっても打ち損じたときなどは態度が一変した。打席でバットをたたきつけ、スパイクで激しく土を蹴り上げる。時々に「クソッ」と奇声を上げる。周囲の空気も、バッティングピッチャーの顔色も変わる。

 ただし、このような前田の態度は決してピッチャーに当てつけた訳ではない。自らの考え通りのフォームで打てなかったことや、打球方向が違っていたことに対する怒りと悔しさの表れでもあった。

 私は、毎年、キャンプになると、この光景を目にして「あそこまでしなくても」と打撃相手に同情したものだ。こうした前田の言動は選手間でも誤解を生むことがあったようだ。人の目をはばからず極限まで自分を追い詰め、ロッカールームやベンチでもバットを抱えたまま瞑想にふける姿をよく目にした。番記者もなかなか寄り付ける雰囲気ではなかった。

 前田は1990(平成1)年、熊本工高からドラフト4位で入団。「打撃の神様」と言われた川上哲治(元巨人監督)の後輩だ。前田をスカウトした村上孝雄(故人)は「トモ(前田)のチーム内に不協和音を生じかねさせない一途な性格を考 え、各球団が手を引いてくれたのは助かった。私は野球に対する徹底したこだわりと打撃センスは絶対ものになると確信していた」と語っていた。入団後長きに渡って、村上スカウトは前田の心の支えとなる。

 入団3年目から前田は計11回、打率3割以上をマークした。この間、95年のシーズンは、ヤクルト戦(神宮)で右足アキレス腱を断裂した。以来前田は何年間もアキレス腱と戦い、強化に取り組んだ。練習中、プレーのさなかでも足の状態に気を配っていた。現役を引退するまでリハビリを続けていた。ベテラントレーナーの福永富雄は「トモだからカムバックできた。粘り強く、辛抱強く両足のリハビリをやってきた。普通の選手ならとっくに諦めていただろう」と語る。孤独に強く、その不屈の精神力には感服せざるを得ない。いまでは解説者としての勉強に余念がない。



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