伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、関西記者クラブ会員、プロ野球殿堂入り投票者、スポーツライター。

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■ 2018年3月8日号

〈キックの宮〉で初優勝に弾み 

宮本幸信

 広島が初優勝した1975(昭和50)年の衝撃的なシーンが、いまだ脳裏に焼き付いている。投手が球審の原田孝一審判の判定に激高し、マウンドから脱兎(だっと)のごとく駆け出し、審判のプロテクターに跳び蹴りしたのだ。このプロレス並みの迫力を演じたのが宮本幸信だ。

 開幕早々の4月11日、地元広島での対中日1回戦だった。ネット裏の記者席にいた私は、「大変なことをしでかしたな」と、この事件≠ノショックを受けながら、事の真相を取材するため記者席から飛び出した。すぐさまベンチ裏へ走ったが、即刻宮本は退場処分を命じられ(制裁金5万円)、すでにロッカールームに消えていた。

 プロ野球史上前代未聞の退場劇。決して褒められたものではないが、宮本にも言い分があった。「犯した行為はあくまでも自分が悪いが、自分としては自信をもって投げた1球だった」。しかし、冷静さを取り戻したときには、すでに遅かった。たった1球。ボール≠フ判定に、宮本は「コース?高低?」とジェスチャーまじりに原田球審に問い詰めた。ところが原田球審は何も応えず横を向いたままだったのだ。この態度に怒りが込み上げての跳び蹴りだった。観客も宮本に同情して、帰りの中日のバスを取り囲むなど騒ぎは試合終了後まで続いた。

 この時、球団初の外国人監督であったジョー・ルーツ(その後約1カ月で退団)は、試合後選手全員を集め「ミヤモトの行為は許されるものではないが、あのファイトをチームに植え付けたかった」とむしろ称賛に近い言葉を残した。監督室には退場劇のパネル大の写真が飾ってあった。チームにはびこっていた負け犬根性を一掃し、選手の意識改革を促していたルーツにすれば、この事件は手応えの表れだと納得していた。

 宮本は68年に中央大からドラフト1位で阪急(現オリックス)に入団した。75年に広島の大石清投手、白石静夫投手と、阪急の宮本、渡辺弘基投手との大型トレードで広島のユニフォームに袖を通した。指揮官がルーツ監督から古葉竹識監督に代わっても、宮本は抑えとして起用された。ルーツ監督のときと同様、向こう気の強さと球威を見込んでのことだった。宮本はストレートの速さと、外角に鋭く切れるスライダーが武器で、打者の胸元に食い込むシュートも効果的だった。

 宮本の跳び蹴り退場劇から、チームは勢い付き、おとなしかった投手陣も奮起。特に、外木場義郎投手のピッチングはすさまじかった。最多勝利投手(20勝)、沢村賞など投手の三大タイトルを獲得した。「ミヤ(宮本)のあの一件(退場処分)が投手陣に火を付けたことは確かだ。ブルペンは燃え上がったよ」と外木場は真顔で話していた。

 阪急時代に3度のリーグ優勝を味わった宮本のプライドは、広島に移っても衰えなかった。後輩たちの面倒見も良く2月の日南キャンプの夜などは、若い投手陣を会食に誘っていた。甲子園遠征では、彼の地元である神戸三宮の界隈を、後輩たちと一緒に飲み歩いていた。「キックの宮」は初優勝へ弾みとなった。この年宮本は10勝2敗10セーブを挙げた。その後77年に日本ハム、80年に大洋(現DeNA)に移籍後、引退した。



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