伝説の記者 コマサンの「今日も野球日和」

プロ野球記者歴50年。伝説の記者・コマさんのコラム

プロフィル こまざわ・さとる
1942年、広島県生まれ。報知新聞入社後、半世紀にわたり野球記者一筋。主な著書に「昼も夜もカープ」(ベースボールマガジン社)、「赤ヘル軍団」「古葉竹識我慢の野球」(ともに講談社)、監修本に「耐えて勝つ」(古葉竹識)、「広島カープ 苦難を乗り越えた男たちの軌跡」「大野豊の全力投球(ともに宝島社)がある。現在、報知新聞社ボーイズリーグ担当、スポーツライター。

過去の記事を読む

慶彦との1、2番コンビで活躍(2017.9.7)

「巨人キラー」で名をはせる 大羽 進(2017.8.31)

カープ支える若手投手クインテット(2017.8.24)

三振奪取王に3度輝く 川口 和久(2017.8.10)

名将・上田利治さんを悼む(2017.8.3)

酒豪で知られた「カープを優勝させる会」発起人(2017.7.20)

2015年

2016年

2017年

■ 2017年9月14日号

事故乗り越え復活したサブマリン 

金城基泰

 舞台は半世紀さかのぼること1975年(昭和50年)。初優勝のかかった後楽園球場の巨人戦。あと1勝で悲願達成のマウンドには悲劇の男≠ゥら不死鳥のごとく復活した金城基泰投手がいた。チームの主力投手の一躍を担っていた彼は、1年前のオフ、大分県での交通事故で両目の角膜を切断。医師からは「野球はあきらめざるを得ないだろう」と言われていた。再起不能の宣言から半年間の入院生活後、金城は周囲の反対を押し切り、再びグラウンドに戻っていた。金城の担当スカウトだった木庭教氏は「性格的にも強く、誰よりも野球を愛していた。必ず1軍で投げられる日がくる」と最後まで復帰を信じて、励まし続けた。この年の8月に入っても広島を含め阪神、中日、ヤクルトの4チームが熾烈(しれつ)な首位争いを展開していた。7日、神宮球場でのヤクルト戦、2試合目の登板でリリーフに立った金城は、乱戦(10対7)にノーヒット3奪三振の好投で決着をつけた。

 木庭スカウトが「掘り出し物」と目を付けていた金城は71年、大阪の此花商高からドラフト5位で指名。ライバルだった1位の佐伯和司(広陵)とは同期だった。

 土をすくい上げるような下手投げからの速球は、打者の手元でグンと伸びた。独特なフォームだった。3年目に10勝をマーク。翌4年目には20勝を挙げ最多勝利投手のタイトルに輝いた。チームの「エース」的存在として期待されたその年のオフ。金城は山道のカーブでハンドルを切り損ない、悪夢のどん底に。

 そしてグラウンドに戻ってから半年後だった。夕日が落ち、カクテル光線がまぶしいひのき舞台。古葉監督はあえて金城を送り込んだ。先発の外木場の快投が続いていた。1点を守り切っての7回。1死一、二塁のピンチを迎えた場面。「決断と勇気はいったが迷いはなかった」(古葉監督)。さっそうとマウンドに立った金城は、代打の高田を一飛、ジョンソンを遊ゴロに打ち取ってピンチを脱した。9回にホプキンスの3ランが飛び出し、金城を力付けた。その裏先頭打者の萩原を三振に切って取り、続く河埜には四球を与えたが、柳田を二飛に、最後の打者となった1番柴田をレフトフライに打ち取った。

 「あの瞬間、マウンド上にみんながドッと押し寄せてきた。胴上げは夢心地でした。一生忘れられない」。紛失したコンタクトレンズはマウンド上への置き土産として、金城は球団史上初の胴上げ投手となった。

 翌年は体調不良もあってわずか2勝に終わった。77年に南海へ移籍。抑えとして79年、80年と2年連続して最優秀救援投手となる。85年に再度巨人に移籍。86年に韓国プロ野球で活躍した後、88年に引退した。

 奇跡のカムバック投手は、私の記憶に最も鮮明に残る選手の一人だ。



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