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今日も野球日和

第36回 「チームを変えた人事
             きっかけとなった出来事」

 慶応大出身で「球界の紳士」と呼ばれた別当薫元大洋監督(現DeNA)と、広島の2代目オーナー松田耕平氏にまつわる話だ。

 1972年(昭和47年)のシーズン中盤、根本陸夫監督が突然、成績不振を理由に休養した。代わって打撃コーチの森永勝也が 代理監督を務めたものの、チームは一向に浮上せず、ますますドン底に落ちていく。その頃のことだ。

 ある日、広島市民球場のネット裏の二軍教室=i若手選手の勉強場)で観戦していた耕平オーナーが、たまたまその場に顔を出した記者(私)に「誰 か、いい監督はいないものか…」とつぶやくように言われた。記者は耕平オーナーの顔を見るでもなく「別当さんはどうでしょうかね…」と風のごとく伝えた。

 耕平オーナーと別当は慶応大時代の同級生。耕平オーナーは「来てくれるかの」とまんざらでもなさそうな顔つき。その場のわずかな会話が気になり、数日後に別当に電話を入れてみた。別当は「その話は来ているよ」と率直に話し、その口ぶりからすでに承知したと私は感じ取った。

 シーズンが終了して間もなく、別当の広島監督就任 が発表された。その1日前に、1面のスクープ記事として伝えることができた。しかし数カ月後、別当を巡って耕平オーナーから大目玉を食らうことになる。

 別当監督をもっても広島は最下位に沈んだままだった。別当が監督就任以来ずっと不信を持ち続けていたのが、球団裏役のある人物だった。当時耕平オーナーは東洋工業(現マツダ)の社長として本業が多忙だった。社運をかけたロータリーエンジンの開発などで海外出張に追われていた。球団運営はその人物の独断≠ナ行われた。球団事務所内部でも批判的な 声が多く、記者の元にもその声は届いていた。根本監督の休養、退団もその人物との不仲が原因といわれていた。

 シーズン中から別当は「あの男がいる限りこのチームは強くならない」とまで嘆いていた。いつの日か別当監督も辞めるな、と私は感じ取っていた。

 東京遠征でシーズンの全日程を終えると別当監督は「辞める」と言い残して都内・六本木の自宅に引きこもった。記者は「別当監督退団」のニュースを書いたが、これが耕平オーナーの逆鱗に触れてしまったのだ。

 東京出張だった耕平オーナーは「別当退団」を報じる記事を目にし、朝一番の飛行機で広島に帰るなり、事務所で待ち構えていた私を「キミがいらんことを書くからだ」と一喝された。耕平オーナーいわく「別当には球団の代表職を考えていたんだ」と聞かされ、返す言葉もなかった。翌74年1月、広島球団を長年の間、牛耳っていた人物は、体調不良を理由に退任。

 別当とその人物の確執が、耕平オーナーの心を動かし、東洋工業の総務課長だった重松良典氏を球団代表に据えた。この人事によってチームはガラリと変わり、やがて75年の初優勝から「黄金時代」を迎えていった。

プレスネット2016年10月1日号掲載


   
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