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今日も野球日和

第42回 「石本監督の奔走で
            球団経営に見通し」

 昭和25年3月10日。西日本パイレーツとの事実上の「開幕試合」となった広島カープは、善戦したものの5対6で惜敗した。この年は結局、138試合で41勝96敗1分の最下位。首位に何と59ゲーム差をつけられた。寄せ集め集団の広島は「ポンコツ球団」と罵倒されるなど、散々なスタートだった。

 一方で本拠地となった広島総合球場(現コカコーラウエスト球場)は、フェンスがコンクリートになって、スタンドはベンチに近く、スタンドの上では鉦(かね)や太鼓の応援に加えて、ヤジが飛び交った。 相手チームの選手には「もう一つの敵と戦わなくてはならない」と言われるほど、カープファンのヤジはひどく嫌がられた。

 球場の正面には「樽(たる)」があちらこちらに置かれていた。資金難の救済をファンにお願いするためだった。後に広島カープを象徴する「樽募金」となり、球団運営の窮地を救う一策ともなった。

 とにもかくにも、初めてのシーズンをなんとか乗り切ったものの、球団にはいつどこで空中分解するかの危機感が常に迫っていた。

 さっそくのことながら、シーズン終了後に1年目の選手への給料の遅配、連盟への加盟金の未払いが表面化。2年目の開幕を迎えるどころの騒ぎではなかった。いきなり身売りか、と大洋との吸収合併を迫られることになったのだ。

 それを救ったのが初代監督の石本秀一だった。球団存続の決まった昭和26年3月中旬、石本監督は試合を助監督の白石勝巳に任せて資金の調達に奔走する傍ら、球団運営に組織的に加わってくれる後援会づくりに、頭を下げて回った。

 昼も夜も金集めのために企業、官公庁などを訪れて窮状を訴えた。石本監督の シワがれ声を振り絞っての叫びは企業や市民の心を動かした。とくに後援会の発足には、市民の多くから賛同を得た。

 広島、呉、福山、尾道、三原から約4万人が後援会に加入。後援会結成によって資金面の危機を乗り切り何とか球団経営には見通しが立った。

 ところが、その年の暮れ、広島にとって大きな事件≠ェ湧き起こった。愛知出身(半田商工)で、チームのエースだった長谷川良平投手を、名古屋軍(現中日)が引き抜こうと画策する騒動だった。その発端は、改訳された契約制度にあった。球団と選手は12月15日までに統一契約書を更新するという規約があった。故郷に帰省中の長谷川投手には伝わっていなかった。ちなみに26年シーズン、長谷川投手は17勝を挙げていた。(つづく)

プレスネット2016年11月19日号掲載


   
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