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今日も野球日和

第44回 「カープ初Vに貢献した『イケガヤ投手』」

 1975年(昭和50年)の球団史上初の優勝は、入団2年目の池谷公二郎投手が真っ向勝負でフル回転した。

 オールドファンには、いまでも「イケガヤ」と聞くと懐かしい残像がしのばれる。腰をくの字に曲げるようにして、両手を前後に羽ばたくように広げる変則フォーム。ダイナミックな投法で一気に投げ下す。145キロ台の速球と外角へ鋭角に落ちるスライダーが武器だった。

 初優勝へ向かって常勝街道を突っ走るチーム。外木場、佐伯らと肩を並べる活躍で、池谷は18勝をマークした。チームメイトからのニックネームは俳優の左とん平に似ているところから「とん平」だった。

 静岡商から社会人野球の金指造船を経て、74年のドラフト会議1位で入団した。池谷が各球団のプロから認められたのは、夏の都市対抗野球の補強選手(日本楽器)として出場した、後楽園球場(現東京ドーム)のマウンドだった。知名度の低かった池谷を他球団に先駆けて早くから追っていたのが、広島のスカウト陣だった。

 先発・完投のスタミナは誰よりもタフだった。あるとき、こんな質問をぶつけたことがある。「池谷投手のウイニングショットは一体なになのか?」、即答での返事は「困ったときのストレート。良いときのストレート。要するにストレートが基本ということです」。池谷の信念は気根≠セった。「エーイドーン」でド真ん中に投げ込むストレートは、三振を奪える半面、ホームランを打たれるリスクも伴った。「ホームランか三振か」。77年のシーズン。そのことを如実に表した48本の被本塁打数は名誉≠る日本記録となった。

 池谷と私は、個人的にもよく一緒に会食した。当時恋愛中(すでに婚約していた)の和代さんは、遠距離の静岡から広島によく来ていた。同席した私の目の前で、そっと隠すようにプレゼントしていたのが手編みのセーターだった。内助の功を得た池谷は、オフに故郷の静岡で、当時の古葉監督夫妻の仲人で大勢の人たちに祝福されて挙式した。そのとき、司会役を務めさせられたのは、恥ずかしながら、私だった。

 翌76年、池谷は20勝15敗で最多勝、沢村賞のダブル受賞に輝いた。現役を引退したのは85年。太く短かった池谷のプロ野球人生の最後の登板となったのは10月24日。通算238本目の被本塁打を浴びてマウンドを去った。引退後は広島、巨人のピッチングコーチを務め、多くの若手選手を育てあげた。真面目でお人よしのイケさんは、現在地元テレビ局の人気コメンテーターとしてももちろん、野球解説者として活躍中。

プレスネット2016年12月3日号掲載


   
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