ジモ通トップ > 今日も野球日和 第64回 「守備・走塁でファンうならせた職人 今津光男」

今日も野球日和

第64回 「守備・走塁でファンうならせた職人」

今津光男

 野球のことはさておいて、まずは「お袋さん思いのミッちゃん」から。私の脳裏に浮かんでくるのは、親一人子一人の孝行息子≠フ今津光男。

 甲子園での試合(対阪神)の移動日には必ず尼崎の実家に「出張費が助かるだろうが」とよく泊めてくれた。息子の帰りを心待ちする母親は手料理と分厚い布団が用意してあった。私には楽しみだった。また当時、南観音にあった広島空港から大阪の伊丹まで飛んでいたプロペラ機で、確か40分ほどのフライト。ミッちゃんは、お袋さんを窓側に座らせて遊覧飛行≠楽しませた。喜ぶ母親の顔に、ミッちゃんの表情も緩みっぱなしだった。

 プライベートの思い出をもう一つ。小柄でおっちゃん顔のミッちゃんは、喜劇俳優の伴淳三郎さんに、息子のようにかわいがられていた。「中日時代から伴さんによく似ていると言われて…」。名古屋遠征では、伴さんが出演する「御園座」公演があると、一緒に楽屋を訪ねた。女優・清川虹子さんからも「ミッちゃん来たの」と声を掛けられていた。どちらかと言えば仏頂面の今津は、話す笑顔が印象的で、とくに4歳年下の私には記者としてではなく、弟のように気をかけてくれた。

 ここからは本題に。生涯打率1割9分6厘。数字が物語るように打撃よりも守備、走塁の選手だった。高校時代(尼崎高)は、投手で夏の甲子園のマウンドを踏んだ。1958年(昭和33年)に内野手として中日に入団。65年に守備、走塁を評価され、広島に移籍した。堅実な守備には定評があった。ピッチャー出身の強肩遊撃手は、三遊間の深い位置に放たれたヒット性の打球をアウトにした。プロとしての見せ場≠つくった。捕球から送球までの動きは見事だった。

 「職人・今津」はグラブつくりの名人でもあった。グラブへのこだわりは、新品のグラブを何日もかけて手でたたき、水でぬらしては油を塗り込む。アパートのベランダに陰干しした後に、さらに練習で使い込み柔らかくしていく。職人気質の今津ならではの隠れた一面だった。

 「クビ同然で広島に拾われた」今津が最も燃えたのは中日戦だった。スタメンに名を連ね、走攻守に際立った働きを見せた。「生涯で最も記憶に残る」(今津)サヨナラ本塁打も中日戦で記録。何事につけての個性たっぷりの今津は9年間、広島でプレー。その後、2年間は阪急(現オリックス)、日本ハムでコーチ兼任でプレー。現役引退後はオリックス、近鉄などで守備走塁コーチを歴任。実技に対しては独特の理論を持ち、選手からも慕われた。

プレスネット2017年5月11日号掲載


   
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