■ 2017年9月14日号 西条酒特集

なぜ西条は「酒都」と呼ばれるのか


米を蒸す時の湯気が朝日に照らされる酒蔵通り(2015年2月に撮影、船越雄治)

 酒どころ西条。JR西条駅周辺には七つの酒造会社があり、赤レンガの煙突が立ち並び、白壁となまこ壁の町並みが続く。“日本三大名醸地”の一つに数えられるが、『酒都西条』と呼ばれるのは、今、世界で飲まれている吟醸酒や純米酒などをつくり出した街だからだ。(橋本礼子)

 昔から醸造に適した気候風土と名水に恵まれていた西条町(戦前は西條町)。「熱心な4人の酒造家の働きかけによって、精米機の技術開発が進み、酒米の研究を行う農事試験場、醸造試験場などの、酒造りの最先端を行く技術が西条のまちに集積された」と酒都西條「酒蔵通り」歴史研究家 の松木津々二さん。

 松木さんが「酒都西条の礎を築いた酒造家」と説明する4人が木村和平、島博三、木村静彦、石井峯吉。

 それぞれが酒の販路拡大、酒質の向上などに取り組み、西条町の造り酒屋は明治から昭和初期にかけて、3軒から10軒に増えた。

 明治31年、安芸津町三津の酒造家・三浦仙三郎が開発した「軟水醸造法」で、酒造りが大きく変わる。その醸造法をさらに生かした独自の醸造技術『広島流吟醸造り』によって、西条をはじめ、安芸津や竹原など県内各地で、最高水準の酒が出来るようになった。

 明治40年に始まった全国清酒品評会(日本醸造協会主催)などでは、常に上位を独占。大正時代に入ると『広島の酒』、そして西条の酒は全国の酒造業者の目標となった。

酒都西条の礎を築いた酒造家

木村和平(わへい)貞一
(天保9年−明治37年)

 明治6年に小島屋(後の賀茂鶴酒造)として酒造りを始める。山陽鉄道の西條停車場を町の中心に誘致するなど、販路拡大に尽力。佐竹利市に動力式精米機の製作を依頼。

島博三(はくそう)勝恭
(嘉永6年−明治41年)

 島酒造(後の白牡丹酒造)を経営。さしたる産業もなかった西条の街に、木村和平と共に本格的酒造業を興し、後に酒都西条の礎を築いた。

木村静彦(しずびこ)
(元治元年−昭和21年)

 木村和平の婿養子となり酒造業を継ぎ、後、賀茂鶴酒造などを設立。酒造業の近代化を促進し、広島県酒の知名度向上と販路拡大に貢献した。


 大正時代には、広島県外で行われる品評会で、西条の酒がその基準酒として使われることもよくあった。

 日本酒造りをリードしてきた地。それが酒都。昭和7年、「酒都は灘から西条に移った」と俳人・河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)によって、全国に広まった。

 西条がある東広島市には、日本で唯一の酒の研究機関、酒類総合研究所がある。現代でも『酒都』をしっかりと支えている。

〈故人は敬称略〉

酒都の移り変わり
戦国時代〜奈良 元禄時代〜伊丹 幕末〜灘 大正時代〜西条

 戦国時代以降、その時代の日本酒造りをリードする醸造法が生まれ、その地が『酒都』と呼ばれて、上記のように移り変わってきた。

知っておきたいワード

西条清酒醸造支場
 県醸造試験場の清酒醸造部門が昭和4年、西条へ移転。現在の酒泉館。醸造技師・橋爪陽らが中心となり清酒「明塊」「広島錦」を造った。

動力精米機
 明治29年、佐竹利市が日本で初めて動力精米機を開発。明治41年には、「竪型金剛砂精米機」を開発。後に酒造業界に革命をもたらす「吟醸酒」の誕生につながった。

広島県酒の三大恩人
 広島の酒を語る上で忘れてはならない3人。軟水醸造法を生み出した三浦仙三郎。酒造業の近代化を促進した木村静彦。広島酒の酒質向上に努めた橋爪陽。3人をたたえて建てられた銅像は、全て東広島市にある。※名前の下は銅像の場所

三浦仙三郎
(嘉平元年―明治41年)
JR安芸津駅西の榊山八幡神社

木村静彦
(元治元年―昭和21年)
JR西条駅北の御建神社

橋爪陽(きよし)
(明治9年―昭和19年)
賀茂泉「酒泉館」前


酒都ならではのすごいこと

@国内で唯一の研究機関「酒類総合研究所」(旧国税庁醸造試験所)が東広島市鏡山にある。A毎年10月に、20万人以上が集まる「酒まつり」が西条酒蔵通りで行われる。これだけの規模の酒まつりは全国でも西条だけ。


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